沖縄ロックの草分けにして覇者といえば「紫」。このグループを抜きにして沖縄のロックは語れません。
1968年、「紫」の前身となる「ピーナッツ」結成。
1970年、バンド名を「紫」とする。
ジョージ紫はディープ・パープルに深い影響を受けていて、それが「紫」というバンド名や音楽性にも影響しています。
基地の街沖縄市、生死をかけてベトナムへと向かうアメリカ兵、極限状態のアメリカ兵たちが集まるAサインバーで「紫」のロック魂は磨かれたのでした。
オキナワン・ロックの覇者「紫」は沖縄の激動期を生きた
1972年(昭和47年)5月15日、沖縄が本土復帰
1975年4月30日、トナム戦争が終戦。
まさに沖縄の激動期。
基地の中では、ベトナム戦争で亡くなった兵士の体を洗う高額なアルバイトもあったそうです。
当時私はまだ高2あたり。これは後から聞いた話なのですが、沖縄にいてもこんなふうにベトナム戦争を感じていました。
「紫」もまた激動のバンドだった
城間俊雄・正男・勉の三兄弟が結成したロックバンド「ピーナッツ」。
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ジョージ紫がピーナッツに加入し、「ジョージ紫グループ」にバンド名を変更。
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コンサートで興奮したファンの一人がピストルを振りかざし黒人刺殺事件にまで発展。
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下地行男が加入し、城間勉が脱退。バンド名が「紫」になる。
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宮永英一が加入するも1年後に脱退、国吉重敏が加入する。
まさに激動の「紫」。
沖縄全体がこの頃はピリピリしていたような気がします。
これが紫サウンド
https://youtu.be/4DsRMDFohe8
ちょっとヴォーカルの声が細い、というのも紫の魅力と捉えましょう。
ドラムは宮永英一(愛称:チビ)。ステージをこなすために筋トレに励み、ムキムキでした。
彼は現在も現役で活動中。66歳になるはずです。生涯現役ロッカーを貫いています。
紫・ツインリードの時代
私の記憶に残っている紫がこの時代の紫です。リードギターが2人いました。
ツインリードです。何ともカッコ良かった!
ステージ前方でのリードギターの掛け合い。
どっちもテクニックは抜群だったので、酔いしれて完全にノックアウト。
このステージは、たぶんですが、沖縄国際大学の大学祭・前夜祭だったのでは、と思います。
その帰りにテンションマックス!なことが起きるのです。
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城間本人がオレたちに話しかけてきたよ!
興奮の紫ライブの帰り道。
車が大渋滞。まったく動かない状態になっていました。もう暗く、みんなヘッドライトをつけていました。
紫の車がトラブッたか?
ヘッドライトに強く弱く照らされながら誰かが近づいて来ます。どうも渋滞の理由を説明しているような。
「あれ、紫のメンバーじゃないか?」
「は?まさかや?」←(ウチナンチュは緊迫状態でこのフレーズをよく使う)
それは紛れもなく双子メンバー・城間のうちの誰かだったのです。ヴォーカルだったかも知れない。
『すみません。クルマが溝にハマってしまって、、、もうちょっと待ってくださいね。』
ステージ衣装そのままに汗だくで説明する紫・城間に私たちは大興奮!
「わかりました!」そりゃ一発オッケーですよね。
その夜はこのハプニングで大盛り上がりでした♪
以降、紫がますます大好きになったのは言うまでもありません。
まとめ
本土復帰に至るまでの沖縄はまさしく揺れ動いていた。
あの頃は子供だから、半ばそれを当たり前に感じていたのかもしれません。
音楽は時代を背景に育つ
2017年は本土復帰45年目にあたりますが、復帰の頃の激動が沖縄ロックを育てたのだと、しみじみ感じます。
ほとばしる感情をストレートに言葉と音でぶつけるのがロックなのだ!
今さらながらにそれを感じます。
で、結論です。
たまには大音量でロックを聞くべきです。
忘れかけていた自分を思い出しますよ。